おつぼ山神龍石 南門・ 第一水門
南門・ 第一水門
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古代山城における門
城壁で囲まれた古代山城では城内に出入りできる場所が限られているため、城の防衛で要となる施設が「門」です。
2000年以降、全国で発掘調査の例が増え、門が設置された場所(立地)、城壁との関係(上から見た平面形)、城門建物の構造などの面で研究が進んでいます。
第一水門(東より見た写真)
平面図
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南門の見どころ
第一水門傍で発見された門は「南門」と呼ばれています。
水門の傍に設けられるタイプで、城壁の途中に設けられる一番シンプルな平面形の、掘立柱建物を設けた門です。
水門を利用した石壁と、城を取り囲む土塁の土壁に挟まれた造りが特徴です。
第一水門 西側裏から見た写真
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第一水門の見どころ
おつぼ山の東側で見つかった水門は 「第一水門」と呼ばれています。 この水門は飛鳥時代初頭に伝えられた朝鮮半島の石材加工技術によって築かれています。 当時の日本列島で最先端の土木技術で、その特徴はブロック状に加工した石を組合せる隙間のない石積みです。 日本では雨対策として、自然石・割れたままの石を利用した隙間のある石積みが主流で、おつぼ山のような完全に加工した石による石垣が登場するのは江戸時代後期になってからです。
水門
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この古代山城に関する唯一の遺物、 柱根
第一水門の前では、柱根3本が発見されています。 排水口近く、3m間隔で見つかりました。
第一号柱根は残存長96cm、最大径21cm。
第二号柱根は残存長140cm、最大径24cm。
第三号柱根は残存長170cm、最大径25cmです。
鑑定で、日本に自柱する樹木のなかで最も重くて硬い木の一つイスノキということがわかっています。
この3本の柱根は、城壁の建造に使われたと考えられており、おつぼ山における古代山城に関する唯一の資料とし貴重です。
柱穴と柱根 その断面図
2012年、 武雄市重要文化財に指定されました。
おつぼ山神龍石 第二水門
第二水門
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古代山城の特徴と水門
朝鮮半島の山城をモデルに造られた古代山城は、山などを巡る厚い城壁によって敵の侵入を防ぎ、城内を守る造りになっています。 城壁によって囲まれているため、城内に雨が降ると水が溜まってしまいます。 水浸しにならないよう、城外に排出し、施設を維持していくうえで、重要な役割を果たすのが「水門」です。
土木の世界では水対策が非常に重要で、どんな頑丈な構造物も排水がうまくできなければ壊れてしまいます。
古代山城の水門は、石積における排水口の位置で、3つに分類されます。
おつぼ山神籠石の水門は、日本列島で最も多い、石積の最下部にあるものに分類されます。 対して朝鮮半島の山城に多いのは石積の下部~中部にあるもので、おつぼ山のような地面近くに設けられた排水口は百済地域に多いことが指摘されています。他に極めて数が少なイプとして、石積上部~最上部に設けられたものがあります。 -
第二水門の見どころ
おつぼ山の西側で見つかった水門は、 「第二水門」と呼ばれています。
第二水門は、第一水門より狭くて急な谷部に築かれています。建造するにあたっては安定した基礎を築き、ブロック状に加工した石を設置し積み上げています。 同じ幅の石材重箱のように積み上げている箇所や、石材同士のすわりをよくするため、石材の角を窪ませた(飲み込みる)加工が特徴的です。
また水門を上から見た平面形は、山側にカーブを描いており、黒部ダムのようなアーチ型をしています。
ショベルカーも、コンクリートもない時代に築かれた施設ですが、 約1300年以上たっても現地に残っている事実が、高い技術でつくられた土木構造物であることを証明しています。
上野本登窯跡・上野新窯跡
武雄市橘町大字永島字南上野にあり、現況は檜林である。出土物は陶器(鉢・甕・土管)である。いずれも上野集落の南にある標高288mの山から派生した丘陵の先端部にあり、北斜面に築窯されている。(図1)。

図1 窯跡の位置図
〈上野本登窯跡〉
弘化5年(1848)に卒した野田亀右衛門が築窯し、5代続き、昭和26年に廃窯となる。本来17室からなる登窯であったが、大正5年に下部を取り壊し、9室としている(野田伝「橘町の甕窯について」)。現在は原野で、階段状に残存している( 図2)。またこの窯のすぐ左側に小塚があり、「八天狗」外2基の石祠があり、陶製の灯ろう棹石が現存する。(図3)。
写真大甕は4石甕-scaled.jpg.webp)
図2 上野本登窯跡(野田伝方前)写真大甕は4石甕
<上野新窯跡>(図4)
明治中期頃の築窯と考えられ、陶工古川形右衛門が明治37年に小野原旧窯に移動しているので、その頃の廃窯と考えられる。11室程の登窯で、上野本登窯から生製品を運んで焼造したりもしていたそうである「橘町の甕窯に就て」。ここでは、甕のほか鉢や片口・瓦なども焼造されていたことが、物原からうかがえる。
【写真解説】
2は本登窯跡横の陶製灯ろうの樟石である。正面に「奉献」、右側面に「慶応四戊辰歳、三月吉日」、左側面に「上野村、瓶山釜焼中、細工小田隈八」の刻銘がある(図3)。
4は新窯跡表採の甕口縁片である。口縁部の外反は、中央の2条の沈線から上が強い。口唇部は折り返してやや肥厚させている。
5は新窯跡表採の注口をもつもので、比較的大きな製品である。注口は短く小さい。ヒモ状粘上を貼りつけてあり、上方で粗くつないでいる。(図5)
追記:平成10年上野本登窯調査報告書(市道改良)から
隣接する市道の改良に伴って「土層断面図の作成と残存する物原の遺物を採取することを目的」として調査が行われた。断面図(図6)とその写真(図7)及び採取された遺物(甕を主体とする陶器と染付)を紹介する(図8)。
⑭ 上野玉島窯跡
玉島古墳の道向かいの山口さん方の前を通って登った檜林の中にあります。橘町内で2番目に古い窯と伝えられており、明治初期に築窯されたと推定される登窯で昭和22年には廃止されました。
窯頭には「甕山神」と彫られた神様が祀られ、下部に明治12年5月と発起人2名、世話人4名の名前などが刻まれています。山口誠也さんの父秀吉氏が焼いていたと資料に書かれています。

図1 上野本登・玉島窯跡位置図
ここをクリックして詳細解説を開きます
町内で2番目に古い窯と伝えられており、明治初期に築窯されたと推定されている。7室からなる登窯で、昭和22年に廃窯となる「 野田伝著「橘町の甕室窯について」。
園窯の上位に自然石に「甕山神」と彫られた山神が祀られている(図3)。
【写真解説】
1は玉島窯跡上位の「甕山神」碑である。下部に「明治十二年五月吉辰」のほか、「発起人」2名の名があり、基壇には「世話役」4名、「細工人」8名の名が刻まれている。
3は玉島窯跡表採の甕口縁片である。口縁部は外反気味で、日唇部は内側に折り返して肥厚させている。口縁部中央に2条、肩部に3条の沈線を施している(図4)

上野玉島窯跡登り口
追記:橘歴研野田郷による小野原古窯資料から
「 山口誠也氏所有地であり、氏の祖父山口秀吉氏が、明治15年から昭和15年まで焼いていた。その以前から窯はあったのを引き継いだと言われている。「甕山神」の石碑は明治12年建立の銘有。確かな記録はないが、明治初期頃の始まりと推定する。明治末頃は、東島佐一・岩永利八と3人で焼いていた。また、大正8年頃からは末尾貞市氏が全部を借りて一人で焼いていたが、息子貞雄氏は昭和22年に廃業した」とある。
史跡 橘町の炭鉱跡
橘町には、明治、昭和の時代に炭鉱がありました。
橘町の炭鉱について、橘町歴史研究会で平成31年出版された「橘町 近代・現代史」から紹介します。(項目を箇条書きに改め、出典を割愛しております)

南楢崎炭鉱跡に残る施設
目次
(1)初めに
-
- 炭鉱はなぜ「ヤマ」と呼ぶのか
- 佐賀県内の炭鉱の発展と衰退
(3)南楢崎 南楢崎炭鉱
(4)鳴瀬炭鉱
時代的には明治時代以降の史跡です。
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(1)初めに
- 炭鉱はなぜ「ヤマ」と呼ぶのか
日本書紀の中に、天智天皇の御代、越後国で「燃える石」が見つかったとある。山の上に雷が落ちて草木が燃え、石塊が黒煙を出していた。この石塊を家に持ち帰り燃料に用いたとある。山の上から持ち帰ったので、この石塊の在る場所を「ヤマ」と呼ぶようになった。 - 佐賀県内の炭鉱の発展と衰退
- 県内で一番早く発見されたのは、北波多村大字岸山の農夫が、享保年間(1716年~1735年)に発見した。
- 武雄市内では、花島村野間山で、 武雄鍋島家の直営事業として天保11年(1840年)開始されたと古文書に在る。
大口需要者は、小田志の窯焼溝上の湯屋・鳴瀬の風呂等と記す。 - 明治6年鉱山法令にて国有化になり、県内でも採炭許可を得る人が多く、小規模炭鉱が濫立して供給過剰となって経営困難となり、一時休止・閉山に追い込まれた。
- 其の後、蒸気機関車が導入されて需要が高まり、又、世界戦争のたびに盛衰を繰り返す中、石炭はエネルギー源の中心的役割をして発展してきた。
- しかし、昭和30年代になれば、エネルギー革命によって、石油・ガスへの転換となり、これが経営困難と成って、県内の炭鉱は昭和48年に全て姿を消した。
(2)北楢崎 南杵島炭鉱(リッキー炭鉱)
名称:市丸炭鉱
(市丸利吉・高治)
↓
新龍炭鉱
(市丸利治)親子三代続く
- 明治20年12月開口
市丸炭鉱 鉱主 山崎常右衛門 (石炭史より)と坑主 市丸利吉の共同経営から、経営を市丸氏へ譲る。 - 明治30年休止
- 大正5年再開
新龍炭鉱 鉱主 市丸利治 - 昭和28年頃閉山
坑口は上古賀(北楢崎区一班)→ 谷古賀(同二班)→ 中林(同三班)へと移る
石炭はトラックにて武雄駅へ運んでいた。
従業員は最大の時百数十人居たが、地元の人は少なかった。
炭鉱住宅が、 公民館南側に社宅として8棟と、中林・尾ノ上分岐道の両脇に2棟づつ在った。
写真1 神龍炭鉱-最後の坑口
写真2 社宅 溝を挟んで両側に2棟づつ建っていた
(3)南楢崎炭鉱
名称:貝島系大辻炭鉱橘鉱業所 (大辻炭鉱史より)
- 昭和27年11月開口
大辻炭鉱は、貝島炭鉱の所有する南楢崎と久間の採掘権を一千万円で購入して、起工式を行った。 - 昭和35年9月閉山
- 北九州の本社は、昭和40年廃山となった。
石炭の運搬はトラック2台で高橋駅まで運んでいた。
主に火力発電所で使用された。
従業員76名ほとんどが地元採用され、又、下請け (菅組・山崎組) は採炭と仕繰りを請け負っていた。
写真3 坑内から引き上げ、反転して置き場へ運ぶレール
写真4 チェンコンベアーと中塊炭ポケット(50トン入)
写真5 雪の坑口
(4)鳴瀬炭鉱
名称:西肥炭鉱
鉱主:鳥越甚太郎
(石炭史より)
- 大正8年開山
- 大正11年閉山
3ヶ所の坑口があった。
○ 旧道入口東の山麓
○ 天理教鳴瀬教会東の裏山
○ 旧道入口東の山麓から南へ約80mの所
経済状況・規模等不詳















